2年以上経つけど

明日11月19日は、音楽プロデューサー松任谷正隆さんの誕生日。松任谷さんといえば弧弦の中では「桜木町」「栄光の架橋」のアレンジが印象的。呼人さんももちろんですが、曲っつーのは曲や歌詞を作る人、唄う人だけではないということを実感しましたね。おめでとうございます、弧弦です。



今日は学生証や入学手続きに必要な写真をスピード写真で撮ってきまして。その近くに住んでいる中学時代の友達(とはいえよく会ってはいますが)のところに報告と激励に。この人は試験がまだまだ先の3月。その為に自宅で学を積んでる真っ只中。とにかく弧弦と違って頑張ってます。弧弦は高校生活での積み重ねを利用、と言ったら言葉が変かもしれませんが、推薦なのでこの受験戦争からある意味「抜け出し」ました。もちろん学びたい事を学ぶことのできる場所なので、その学校に受かって、入学すること自体には全く後悔はないのですが、ひとつ心が痛むのはいわゆる「受験勉強」に勤しんでいる人々には申し訳ない感じがするのです。



高校の友達にも、冗談交じりに「なんで全然勉強しなくて受かるんだよー」と言われたりします。ちなみにこの人も推薦で受かってはいますが、一般入試を見通しての学習はしていた人なので。弧弦は予備校にも結局行かなかったし、家庭でもほとんど学習をしない子なので、そういう感情がその跳ね返りとして襲ってきます。なんか既に受かってる人間が「頑張れ」っつー言葉をかけるのは相手に伝わるのかどうなのか。『お前頑張ってねーじゃねーか』とか思われないだろうか。なので、あんまり僕は「頑張れ」を言える自信がない。今日もその友達に何回か「頑張れ」を言いましたが、伝わるかどうか不安でした。



でもね、自分が選んだ道を否定するつもりもなければ、誰かが選んだ道を勝手に荒らすつもりももちろんありません。結局僕が思うのは「個人」という考え方であって、自分が歩いてる道は自分が作っているので、ほとんど全てを理解している。けど、人が歩いてる道は、たとえ理解しているつもりでも全く明確じゃないんですよね。どこかにある落とし穴や上り坂に気づいてあげられるのは難しい。無理やりその道を歩こうとすると、ぬかるむ道を平気で歩いてたり、大切なものを踏み潰していたりするかもしれない。かと言ってそれを恐れて人と関わることを避けるのもダメだし・・。よほど人の道に入り込む自信がない限り、そういうジレンマを解決する方法は「抽象的な支援」しかないと思うんですよね。だから「頑張れ」とか、ありきたりかもしれないけどそういう言葉を投げかけるのが一番だと思うわけです。今のうちはね。



何が言いたいのかよくわからなかった方、大丈夫。本人もさほどわかっていません。とにかく、受験に向けて力を注いでいる方々には「頑張れ」の一言をかけたいと思います。弧弦でした。